ナマステ、インド在住のKome(@chankomeppy)です。
マハトマ・ガンディー(Mahatma Gandhi)
この名前を聞いたことがない人はいないだろう。「インド独立の父」として有名で、今でも偉人として世界中で英雄とされている。
ガンディーがどんな人物か、独立のために何をしたのか、ご存知ですか?
今回はガンディーの生い立ちと、インド独立のためにガンディーがしたことをまとめてみた。
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ガンディーの名前
ガンディーの本名はモーハンダース・カラムチャンド・ガンディー(Mohandas Karamchand Gandhi)。
マハトマは名前ではなく、サンスクリット語で「偉大な聖人」を意味する称号だ。自らの人生をインド独立に捧げたガンディーに敬意を称して捧げられた。
महा(Maha)=「偉大な」
त्मा(Tma)=「魂(アートマン=我)」
若き日のガンディー
ガンディーは1869年に現在のグジャラート州があるポルバンダール藩王国の裕福な家庭の末っ子として生まれた。父は藩王国の大臣、母はヴィシュヌ派の熱心なヒンドゥー教徒で、厳格なベジタリアンだった。
劣等生で不良
小学生時代は素行が悪く、成績も良くなかったそうだ。悪い友人にそそのかされて肉食を繰り返し、タバコも吸っていた。
13歳で結婚
13歳のとき、兄たちが結婚するのと同じタイミングで幼なじみのカストゥールバーイと結婚。当時のインドでは幼児婚は珍しいものではなかった。
性欲おばけに変身
若き頃のガンディーは性欲に溺れていた。学校でもどこでも、「早く夜にならないかな」と常に考えていたそうだ。「妻は旦那を支えなさい」と妻の外出を許さずに監禁、カストゥールバーイは学校にも通うことができなかったため、大人になってから勉強して読み書きができるようになったという。
結婚の年齢が思春期真っただ中であり、健康的な少年であるといえばそうだが、その没頭具合は実父の死に目を逃してしまうほどである。
ガンディーが16歳の時、父が重い病気で倒れ、ガンディーは熱心に父の看病をしたが、性欲を押さえることができず、看病の合間を見ては妻のもとに行って抱いていたという。
ある日、いつも通り看病を抜けて妻を抱いていると、その間に父の容態が急変し亡くなってしまった。自分の欲望を優先したがゆえに、親の死に目に立ち会うことができなかったことを大変後悔し、生涯にわたって天罰だと考え、「父を殺したのは、私の性欲である」とも言っている。
弁護士になるため渡英
1887年、人一倍出世欲が強かったガンディーは弁護士になるため、ロンドンの4つの法曹院のひとつであるインナーテンプル法曹院へ留学する。母親はガンディーの留学に強く反対したが、3つの誓いをたてて留学を許してもらった。
- 女性に触れない
- 酒を飲まない
- 肉食をしない
1891年、弁護士の資格を取ってインドに帰国、ボンベイ(現ムンバイ)で弁護士業を始めるが、インドでの弁護士活動に不慣れでうまくいかず空白の2年間を過ごす。
南アフリカでの活動
1893年、南アフリカで成功したインド人商人の依頼で、1年契約の企業顧問として家族とともに南アフリカに渡る。
人種差別との戦い
しかし、南アフリカに着いたガンディーを待ち受けていたのは人種差別(アパルトヘイト)だった。
ガンディーが鉄道で一等車に乗ろうとした時のこと。車掌にクーリー扱いされ、一等車への乗車を拒否。諦めずに一等車に乗ろうとすると暴力を振るわれた。
奴隷制度廃止後の労働力不足を補うため、年季奉公契約で労働力として移民させられたインド人(印僑)のこと。当時インドも南アフリカもイギリスの植民地で、イギリスは大量のインド人貧困層を労働力として南アフリカに送っていた。インド人労働者は奴隷と同等の扱いを受け、苛酷な労働環境に置かれていた。
強烈な人種差別を目の当たりにしたガンディーは、インド人唯一の弁護士として人種差別と戦い、権力に対して非暴力と不服従(サティヤーグラハ)で対抗した。
1906年、現在の南アフリカ北部に存在したトランスヴァ―ル共和国において、指紋登録法が可決された。これは、同国に居住するインド人が自由に出入りできないようにするための法律で、指紋を提出しない場合は同国での居住権を失うという内容のものだった。
ガンディーを指導者とするインド系住民はこれに従わず、指紋登録証を集団で焼き払ったり、デモやストライキを行ったりして不服従で徹底的に対抗した。この反対運動により、ガンディーを含む何百人ものインド人が投獄、処刑されるも、インド人たちは非暴力を貫いた。最終的にガンディーが不正を追及し、英・印両国からの圧力の高まりによって、1914年に妥協案が受け入れられ、インド人への人権差別が改善した。
1915年、ガンディーは南アフリカからインドに帰国する。
インドへの帰国と国民会議派への加入
インド帰国後、ガンディーは南アフリカでの実績が評価され、国民会議派穏健派の指導者ゴーカレーに請われ、国民会議派に加入した。
イギリスの植民地統治に対する反発が高まっていた19世紀後半、イギリスは反英勢力を抑えるためにインド国民会議を1885年にボンベイで開催し、イギリスによって選ばれた弁護士や教師などの上流階級インド人たちに話し合いをさせて植民地統治への不満のはけ口とした。この会議の参加者によって結成されたインド初の国民的な政党が国民会議派である。
アーメダバードにサーバルマティー・アシュラムを作り、そこを拠点として各地を周り、労働者の争議や農民の反税闘争を指導するなどして民衆の心をつかんだ。
もっと詳しく!【アーメダバード】サーバルマティー・アシュラム (ガンディー・アシュラム)~インド独立運動の転換点となった塩の行進はここから始まった!~
第一次世界大戦とイギリスの裏切り
当時、第一次世界大戦真っただ中。イギリスにとってインド人の人的・物質的資源は不可欠であったが、すでにインド国内では反英運動が起こり始め、自治要求を強めていたため、イギリスのために戦争に参加することに対して反発が存在した。このためイギリスは「戦争に協力してくれたら自治権を与えるよ」と約束し、インド人を戦争に参加させた。
ところが戦争が終わるとイギリスは「インド統治法」を改正し、統治機構を「中央政府」と「地方(州)政府」に分け、中央政府は自治を許さず、州政府にだけ自治権を与えた。
期待されていた自治は地方自治のみで形式的な自治にとどまり、インドはイギリスに裏切られた。
激化する反英闘争を抑制するために、逮捕状なしにインド人を逮捕し、裁判なしにインド人を投獄できる権限をインド総督に与える「ローラット法」の原案が1918年夏に発表された。これが成立すればインド人の基本的な人権は剥奪されたも同然であった。
第一次非暴力・不服従運動
1919年3月、多数の反対を押し切ってローラット法が成立。
法案の成立を受けて、国民会議派の新たな指導者であるガンディーは
❝これらの法律が撤回されるまで、我々はこれらの法律、また他の法律にも従うことを拒否する。我々はこの闘争において忠実に真理に従い、生命・個人・財産に暴力をふるうことはしないだろう❞
と表明し、非暴力と不服従を理念とするサティヤーグラハが提唱され、祈りと断食によってイギリスへ抵抗するように呼び掛けた。
糸車が反英闘争のシンボルに
サティヤーグラハの理念に基づき、ガンディーはチャルカと(手紡ぎ車・糸車)によって綿から糸をつむぎ、その糸でカーディ(綿布)を織り、これを身に纏うことでスワデーシ(国産品の愛用)と英貨排斥(イギリス製品を使わないこと)を自らの身をもって具体化した。
この背景には、イギリスの植民地支配によりインド綿産業の崩壊がある。イギリス統治下では、インドで栽培された綿花がイギリスに安価で輸出され、イギリスの機械化された工場で布に加工されたものがインドに高値で輸入された。それまで綿織物を生業としていた人達は失業し、伝統的な手織り産業は崩壊、失業者が溢れたことがある。
イギリス製のものを使わず、国産のものを使おう。
手と足さえあれば、イギリスに頼らなくても自分たちで綿布を作れるのだということをガンディーは身をもって示し、チャルカはインド独立運動のシンボルとなった。これはチャルカ運動(糸車運動)とも呼ばれる。
ヒラファート運動
第一次世界大戦で敗戦したオスマン帝国(現トルコ)で、神の預言者ムハンマドの後継者を意味する「カリフ」の地位が危ぶまれていた。カリフの地位を脅かしているのがイギリスであるとして、インドのイスラム教徒の間で反英闘争(ヒラファート運動)が起こった。
ガンディー率いる国民会議派は、イギリスからの独立という共通目的で結束し、ヒラファート運動に協力。その結果、ガンディーの唱える非暴力・不服従運動にムスリムも参加するようになった。
トルコ革命によってカリフ制が廃止されると、ヒラファート運動は終了し、その後は両社の協力関係は崩れて対立の溝が深まっていった。
ボイコット(非服従)
サティヤーグラハの日
1919年4月6日、この日は「サティヤーグラハの日」と定められ、ハルタールをインド全土に命じた。
インド全土の店・工場・学校は閉められ、集会が行われた。インドに古くから根付く慣習を用いることにより、指導者だけでなく農民や労働階級者を含めた全員が初めて政治に参加した。
喪に服するために店を閉じ、断食をして身を浄め、祈りを捧げることで、インドに古くから続く文化。
イギリス皇太子のインド訪問に対するボイコット
1921年7月28日、ガンディーが指導者を務める国民会議派は、非服従運動の一環として同年11月のイギリス皇太子(後のキングエドワード8世)の訪問をボイコットすることを決定。
イギリスによって運営・支援されている学校に通わないこと、警察や軍隊・公務員・弁護士らは仕事を放棄すること、若者たちはチャルカ(糸車)運動に加わって綿をつむぐことが推奨された。
イギリスの製品の不買運動も起こり、特に輸入綿布のボイコットによって、綿布の輸入額は1920年から1921年にかけて半分に落ち込み、イギリスに経済的打撃を与えることに成功した。
最終的に11月にイギリス皇太子がインドに到着した際、皇太子をを歓迎したのは広大で荒れ果てた道のみだったという。
しかし大規模に発展した運動のなかで、暴徒化した民衆が衝突を起こし、非暴力の原則が守られずに死者が出てしまう。
これを受け、ガンディーは1922年に反英闘争の中止を突如宣言した。ガンディーは危険人物として逮捕され、その後数年は国民会議派主体の運動は停滞した。
第二次非暴力・不服従運動
完全独立の要求
1927年、イギリスがインド独立問題の調査のために憲政改革調査委員会(サイモン委員会)を設置した。
インドの独立に関する委員会であるにも関わらず、委員はイギリス人のみで構成され、インド人が一人も含まれていなかったことから、再び反英姿勢が強まった。
インド人が委員に選出されなかった理由として、インド側が宗教的な対立で一本化されていないことを挙げたので、各政党・勢力は協力して自主的に憲法原案の作成に入った。
1928年に提出された原案は、
❝イギリス帝国内の自治領の地位を要求し、分離選挙制などコミュナリズムにつながる制度は廃止する❞
というものであったが、少数派のムスリム勢力は分離占拠を強く求め、国民会議派内でも「帝国内の自治領」を求める穏健派と「完全独立」を求める急進派に分裂した。
ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒などの宗派や、社会集団別に議席数を配分する選挙制度
このように党内で分裂が起こる中、ガンディーの調整により、1929年のラホール国民会議派大会で、のちのインド初代首相となるネルーら急進派が支持する完全独立(プールナスワラージ)を目標とすることが決定し、翌年1930年1月26日を「独立の日」として独立の誓いを行った。
塩の行進
ガンディーは、独立とは一見関係のない「塩税反対運動」を実施することで、反英闘争を大衆的なものにした。
当時、塩はイギリス植民地当局による専売制で、"インド人は自由に塩を作ることができなかった。
しかし、塩は外国政府が高い税金をかけて専売するべきものではない。
塩は自然の恵みで、海に行って海水を煮詰めれば簡単に手に入る。
暑いインドにおいて塩は必需品であり、貧しい人も万人が自由に手に入れるべきものだ。
これは法律の不正ではないか?
植民地支配の不正義ではないか?
イギリスの不当性を訴えるため、ガンディーと弟子たちは法律を破ってサーバルマティー・アシュラムからダーンディー海岸(ムンバイ近郊)までの380キロの道のを歩き、海岸で塩を作った。
これを塩の行進と呼び、行進は1930年3月12日から4月6日まで続いた。
これに対しイギリスは無抵抗の人々を武力で弾圧した。ガンディーと弟子らは血を流しながら塩を作り続けた。この様子は全世界に報道され、イギリス政府に非難の目が向けらた。
4月5日、ガンディーは米国のAP通信の記者に以下のように答えている。
この塩の行進の、初期の段階でハッピーエンディングと称され、また私にとって少なくとも自由への最後の闘争と称されることを神に感謝します。私は行進の間、一切の干渉をしなかった政府に賛辞を惜しみません。私は政府が干渉しなかったことは本当に心変わりか或いは政策の変更によるものだと信じたいと願います。立法議会内において示される悪意のある無視や横柄な態度を見れば、インドに対し、冷酷に搾取する政策はどんな犠牲を払っても存続されるということに疑いの余地はありません。私がこの不干渉に与えられる唯一の解釈は、英国政府は--とても強いのだが--世界の世論に敏感になっていることだ。不服従が市民運動であり、ゆえに必然的に非暴力である限り、世界の世論は、極端な政治的扇動(市民的服従)への抑圧を許容しないでしょう。政府は行進を許容してきましたが、明日から無数の人々による塩法違反を許すかどうかは不明です。私は多くの人の反応がインド国民会議の決断に影響することを期待します。
WIkipedia
塩の行進
塩の行進により、インド各地で塩は不法に作って売られ、たとえ低品質であっても違法品を買うことが勲章となった。これにイギリスは暴力で対抗するも、さらなる反発をまねき、イギリス製商品の不買活動をはじめ、役人の地位を棄てる人や、地価税の支払いを拒否する人など、大衆の非服従は多様化していった。塩の行進をきっかけとする大衆の非服従運動により、10万人以上が逮捕された。
翌年1931年、事態の打開を図るため、インド総督のアーウィンが直接ガンディーと交渉し、塩税の撤廃(=塩製造の許可)と政治犯の釈放を条件に塩の行進の中止させた。
ガンディーはイギリス側に交渉相手として認識され、ガンディーは国民会議派の代表として、インドの自治について話し合う英印円卓会議に参加するためにロンドンへ渡った。
第2回英印円卓会議
1931年にロンドンで開催された第2階英印円卓会議で、ガンディーはイギリスに対し直接インドの完全独立(プールナスワラージ)を主張した。
しかし会議の主な議題は分離選挙制であった。
イギリスは、高まる反英意識を分割統治によって和らげること、国民会議派の議席数を減らすことを目的とし、州議会選挙において不可触民だけが立候補できる選挙区を特別枠で設けることを提案してきた。
ヒンドゥー、ムスリム、不可触民らを対立させて、イギリスに対抗できないように統治すること。
不可触民出身で、不可触民解放運動の指導者アンベードカルは「差別されてきた不可触民の人々と、有利な立場にいた人々が、同じ条件下で政治的に競争しても勝つことはできないので、特別枠を設けない限り不可触民が選ばれて議員になることはありえない」として分離選挙を求めた。
これに対しガンディーは、「特別枠を設けることによって不可触民の差別は固定化されることになり、差別は永遠になくならない」として分離選挙を批判した。
また、ムスリムや不可触民といった少数派を保護するという名目で彼らに一定数の議席数を確保することは、国民会議派の議席数を減らすこと=ヒンドゥー勢力が多数を占めることをなくそうとする分割統治そのものであるとして強く反発し、死に至るまでの断食を宣言した。
この宣言によってガンディーが断食を始めると「ガンディーを死なせてはならない!」としてインド全土で不可触民を入れなかった寺院が門戸を開き、井戸や道も不可触民に開放され、アンベードカルに対しても妥協するよう圧力が強まった。
断食4日目にガンディーが衰弱して重体に陥ると、アンベードカルは分離選挙の要求を撤回せざるを得なくなり、国民会議派とアンベードカルは妥協案で落ち着き、留保制度が設けられることとなった。
この件をきっかけに、ガンディーは不可触民を「ハリジャン(神の子)」と呼んで、ハリジャンの解放を目指すハリジャン運動を展開する。
宗派別の分離選挙はムスリムの主張によって導入され、これがのちに分離独立の前提となる。
ハリジャン運動への傾斜
1933年、ガンディーは9か月かけてインド全土をまわってハリジャンに対する偏見をなくすように平等を説き、募金を募った。
自らもハリジャンの女の子を養子とし、ハリジャンたちと生活をともにした。
こうしたガンディーの行動は、イギリスからの完全独立を目指すネルーやチャンドラ・ボースらから不満を買うようになり、対立が生じた。そのためガンディーは1934年に5月に非暴力・不服従運動の停止を表明した。
第二次世界大戦勃発
1939年に第二次世界大戦が勃発すると、ガンディーは再び政界に引き戻された。
イギリスがドイツに宣戦布告すると、インドに対しても、自動的に戦争状態にあると宣言。イギリスにとってインド人兵士の供給は欠かせなかった。ガンディーら国民会議派は「独立が認められなければ戦争には協力できない」としてこれに反発するも拒否された。
1941年に大東亜戦争(太平洋戦争が)始まり、日本軍がシンガポール、ビルマ(現ミャンマー)を占領すると、連合軍側の中国を支援するためにはインドルートに頼らざるを得なくなった。日本がインドに迫ってくる中、米国と中国は、イギリスに対しインドに全面的に戦争に協力させるため、インドの独立を認めるように迫った。
インドの独立問題は国際問題化したため、イギリスはインドに対し、
❝戦争に協力することを条件に、戦後インド連盟をカナダやオーストラリアと同等のイギリス連邦内自治領として認める❞
と提案したが、ガンディーは以下をを理由にその魂胆を見抜いて拒否、ムスリム勢も分離独立が明記されていないという理由でこれを拒否した。
- 今すぐではなく戦後であること
- 藩王国やムスリムについては別個に交渉するとして分割統治を継続しようとしていること
クイット・インディア運動
イギリスのこのような動きに対して反英闘争の動きが再び高まり、ガンディーはクイット・インディア運動 (Quit India Movement)を提案。イギリスへの全面的な非協力を訴え、ガンディーやネルーは投獄された。
インパール作戦
1944年、インパール作戦によって日本軍がインドに侵攻してきた。
ガンディーの非暴力を批判して国民会議派から離れたチャンドラ・ボースは、1943年に自由インド仮政府を設立し、連合軍の敵と協力することでインドを独立に導こうとした。チャンドラ・ボーズは日本軍と協力してイギリスからの独立を実力で掴もうとしたが、インパール作戦で日本軍は敗れる。
インパール作戦で日本軍が敗れると、クイット・インディア運動も終結した。
つまり、ガンディーらも日本軍に期待を寄せていた可能性が高い。チャンドラ・ボーズと日本軍がイギリス軍をやぶって独立を勝ち取れると踏んでいたからこそ、クイット・インディア運動を展開したのではないかと推測されている。
第二次世界大戦終了
1945年8月15日、日本の降参によって第二次世界大戦は幕を閉じた。
インド独立
イギリスは戦勝国となったが、日独との戦いによって国力は衰退し、独立運動が根強く続くインドを支配し続けることはもはや困難であった。
1947年7月、イギリス議会は「インド独立法」を可決。
これはガンディーが求めていた「ひとつのインド」としての形の独立ではなかった。ガンディーは「ひとつのインド」としての独立に非常にこだわっていたが、インド・パキスタンとしての分離独立の可能性が高まると「分割せずひとつのインドとして独立し、ムスリム指導者(ジンナー)にインドを支配させればよい」という奇案を提案した。この案は、のちの初代インド首相となる国民会議派のネルーをはじめとするガンディーの弟子たちに受け入れられず、彼らはガンディーの考えを支持することをやめ、現実的な「分離独立」を支持するようになり、分離独立を容認した。
インド独立に対して、ガンディーは次のように言っている。
❝明日(8月15日)から、イギリス植民地支配の束縛から解放されます。 しかし、今日の真夜中から、インドも分割されます。ですから明日は喜びの日であると同時に、悲しみの日でもあります。それは私たちに大きな責任を負わせます。神が私たちにそれを支える力を与えてくださるように神に祈りましょう...❞
(原文)From tomorrow we shall be delivered from the bondage of the British rule. But from midnight today, India will be partitioned too. While, therefore, tomorrow will be a day of rejoicing, it will be a day of sorrow as well. It will throw a heavy burden of responsibility upon us. Let us pray to God that He may give us strength to bear it...
1947年8月15日、ネルーがヒンドゥー教徒多数派地域の「インド連邦」としての独立を宣言、イギリス国王を元首とするイギリス連邦王国であるインド連邦が成立した(1950年に共和国制に移行)。
式典に、統一インド独立を目指していたガンディーの姿はなかった。
最後のインド総督、マウントバッテン卿 (第二次大戦後にインド独立の任務を果たすために派遣された) は次のように言っている。
❝この歴史的な瞬間に、インドは非暴力による自由を掲げたマハトマ・ガンディーのおかげであるということを忘れないようにしましょう。今日ガンディーはここにおりませんが、私たちの心のなかにいます。❞
(原文)At this historic moment let us not forget all that India owes to Mahatma Gandhi - the architect of her freedom through non-violence. We miss his presence here today and would have him know how he is in our thoughts.
ガンディーの暗殺
分離独立を望まないガンディーは、インド独立後もムスリムとの対話を続けていた。その姿は「ムスリムにとってあまりに寛容すぎる態度」であるとヒンドゥー至上主義者から不満を抱き、1948年1月30日にナートゥーラーム・ゴードセーによって暗殺された。
ガンディーの葬儀は国葬として営まれ、何万人もの人が参列した。
ガンディーの死後と評価
ガンディーはインド独立直後に暗殺されたこともあって神格化され、インド独立を象徴する偉人として、インド中、世界中の人達の心に刻まれた。
しかしインド国内において、ガンディーは必ずしも絶対的な称賛をされているわけではない。
ガンディーが所属していた国民会議派(INC)は、ガンディーの影響もあって独立後しばらくは政権の座を握り続けていた。ガンディーの後継者といわれた初代首相ネルーは、経済政策のうえではガンディー主義に逆行し、生前ガンディーが反対していた産業の機械化・工業化を積極的に推し進めた。インドが発展するにしたがい、ガンディーの思想は「時代遅れで非現実的」と評価する人がでてきた。
また、2014年よりモディ首相率いるヒンドゥー色の強いインド人民党(BJP)や、ヒンドゥー至上主義の民族義勇団(RSS)などのヒンドゥー強硬派は、ガンディー批判を強めている。
彼らの主張によれば、ガンディーはあまりにもイスラム教に弱腰で、ヒンドゥー教徒を苦しめたと見る。インドが分割され、それに伴う暴動で流血の事態が発生したのもガンディーの責任だという。ガンディーを暗殺したゴートセーも「ガンディーは真実と非暴力をかかげ、言葉で表せない災難をインドにもたらした」と裁判で同様の発言をしている。
また、ガンディーはムスリムとの融和を目指していたが、ムスリム視点では「イスラム教をよく理解してない人」と認識されている。不可触民をハリジャンと呼んでハリジャン解放運動に取り組んだが、逆に「ハリジャン」が一種の差別語になってしまっている。
海外でガンディーが大称賛される一方で、インド国内では批判的な見方も存在するということも、頭の片隅で覚えておきたい。
まとめ
「非暴力・不服従」を掲げイギリスからインドを独立に導いた。
- チャルカ(糸車)で綿をつむぎ、手織りのカーディを着用することで、常に「イギリス製品の排斥」と「国産品の愛用」を訴え、サティヤーグラハ(非暴力と不服従を理念とする抵抗)を具現化し、自分自身を反英闘争の象徴とした。
- 非暴力と徹底的な不服従を貫き、イギリスの植民地支配に抵抗した。特に「塩の行進」では民衆に「植民地支配の不当性」を訴えることに成功し、インド各地で不服従運動が繰り広げられた。
ガンディーは、イギリス政府と交渉する「政治家」、イギリスへの不服従運動を主導する「運動家」、ヒンドゥー教の内部を追及する「宗教家」など様々な顔をもつが、個人的には「カリスマ」という肩書きが一番しっくりくる。
カーディの着用によって英国製品の排斥と国産品の愛用を訴えたり、自分の言い分が通らないからと断食を決行したり、常人には理解しがたい行動をしている。そしてそれが支持されているのだから、カリスマ以外の何者でもないだろう。
インド国内にはガンディーに関連する観光地がいくつもあるが、その中でもガンディーが活動の拠点としたアーメダバードのサーバルマティー・アシュラムや、ガンディーが初めて糸を紡いだ場所であるムンバイの住居(マニバワン)は大変見ごたえがあるので、ムンバイやアーメダに行く際は是非訪れたい場所だ。
- ガンジー自伝
リンク
ガンジーの自伝。1925年に書かれたもので、出生から1920年ごろまでの前半生を収めており、その大半は22年間過ごした南アフリカ時代について。ガンディーの非暴力・不服従の理念(サティヤーグラハ)は、当記事でも書いている通り、南アフリカでのインド人に対する人種差別に対抗する運動のなかで生まれた。アフリカ時代にガンディーがサチャーグラハの思想を深めていく過程を知ることができる。
- ガンディー獄中からの手紙
リンク
1930年、塩の行進によって投獄されたガンディーは、獄中からアシュラムの弟子たちにへ手紙を書き、自らの思想や考え方、行動原理について説明していた。これらの手紙をまとめた一冊。
- ガンディー獄中からの手紙(解説テキスト)
リンク
「ガンディー獄中からの手紙」は難解な言葉も多く使用されており、かんたんに理解できるとは言い難い。そこで本に記されているガンディーの思想をわかりやすく解説したテキストがこちら。
- ガンジーの実像
リンク
神格化されているガンディーからは想像できない、ガンディーの人間的な部分にフォーカスしてガンディーの思想を紹介。
- ガンジー(コミック)
リンク
いちばん簡単なガンディーの本。だれでも気軽に、宗教観など難しいことを考えずに読むことができる。
Wikipedia(https://en.wikipedia.org/wiki/Mahatma_Gandhi)
ガンディー公式ウェブサイト(https://gandhi.gov.in/index.html)